「戦争中だったこともあって、軍歌一色。父親は家で歌謡曲を禁止していました。父親も軍人系でしたから硬いですよね。姉たちはラジオを隠して歌を聴いていたのを今でもよく覚えています」
幼少期から小津安二郎などの作品に親しみ、暇さえあれば映画館に入り浸った。「映画が僕の恋人。音楽はね……、実はそんなに好きじゃなかったんだよ。学校なんてどうでもよかった。映画のことで頭がいっぱいだったから。映画を作る会社に入りたいと思い、山本薩夫(さつお)監督や今井正監督を訪ねて、山本監督に認められて、松竹に入った。だけど、入社直後、先輩に言われた。『お前、いまさら何しに来たんだ?』って」。
当時、テレビの普及が進み、映画は過去の遺物となりかけていたという。松竹も映画事業を縮小していた。
「やっと映画の道に入れたのに、松竹が映画をあまり作らなくなったと聞いて、がくぜんとしたんです。そうしたら、その先輩も面倒見が良くて、『音楽だけど、日本コロムビアなら募集してる。そういう勢いのあるところでやったほうがいいぞ』って教えてくれた。『プロデューサー』や『ディレクター』って言葉もなくて『文芸部』だった。勢いがあって作品を作れるという会社にひかれて、映画をいったんあきらめて、試験を受けて入ったんです」
記事後半では、山口百恵さんのプロデュース方法や、「いい日旅立ち」というタイトルになった秘話などを紹介します。
当時の歌謡曲「わざとらしい」「古くさく感じた」
日本コロムビアに入るが、旧態依然とした歌謡曲への反発から、新しいものを作り始める。当時、コロムビアの中に専属作詞家や作曲家の組合があったが、専属作家を起用せずフリーの人を使ったため、大きな問題にもなったという。若いころは「トラブルメーカー」と呼ばれる日々だった。
「生意気なんだけど、当時の…
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