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9回4点差でも諦めない野武士軍団…ナゴヤ球場で絶叫「俺に回せぇ!」大島康徳さんが語り続けた“アキラの四球”
2021年7月8日 10時15分
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10回裏2死満塁、中前にサヨナラ安打を放ってナインに迎えられる大島(中央)=1982年9月28日、ナゴヤ球場で
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って~竜巨特別編~
 最後の会話は5月25日だった。久しぶりにバンテリンドームを解説の仕事で訪れていた大島康徳さんは、球友たちとの再会を本当に楽しんでいた。その合間に僕は「竜巨2000試合」が近いことを説明し「あの試合のことを書かせてください」とお願いした。大島さんは「ぜひ書いてくれ」と快諾してくれた。あの「試合」だけで通じるのがゲームナンバー1110。近藤貞雄監督率いる「野武士軍団」が、江川卓を土壇場で打ち崩し、8年ぶりの優勝に大きく前進した1982年9月28日(ナゴヤ)だ。
 大島さんだけでなく、当時のVメンバーは必ず「あの試合に勝てたから優勝できた」と口にする。首位・巨人とは2・5ゲーム差。9回を迎えて4点差だったというのに、野武士たちはあきらめていなかった。満塁から大島さんの犠飛で1点を返し、宇野勝、中尾孝義の適時打で一気に追いついたのだ。
 サヨナラ打も大島さん。ところがヒーローが鮮明に覚えているのは、この一打でも、7回に江川から放った本塁打でも、9回の同点劇でもない。
 「アキラ~、オレに回せぇ!何とかするから!」。延長10回、2死一、二塁。ネクストバッターズサークルから、こう叫んでいた。アキラとは尾上旭。9回に代走で出場し、そのまま守備に就いていた。当時の規定では11回はない。倒れれば引き分け。それは追う中日には負けと等しかった。打撃は決して得意ではなかった男が、8球粘って四球を選んだ。
 「(尾上は)緊張で唇の周りが塩が吹き出したように白くなっていた。自分も『オレに回せ』なんて言葉を使ったのは、野球をやっていて初めて。それだけの思いがあったんだ」
 脇役の執念と主役の責任感。チーム一丸の逆転勝利で、2位ながらマジック12が点灯した。近藤監督が宙に舞ったのは、この20日後のことだった。その輪の中心にいたはずなのに、何年たっても大島さんが語るのは「アキラの四球」だった。最後の取材となったこのときも、自分の病状は何も言わず「アキラは元気なのか?」と弟分の体調を気遣っていた。野球を愛し、家族を愛し、仲間を愛した人生。野武士がまた一人、逝った。
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