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1989年9月12日、記者会見を終えた礼宮さまと川嶋紀子さん(当時) ©JMPA
 象徴天皇制を研究する河西秀哉氏(名古屋大学大学院人文学研究科准教授)は、「天皇自身の言葉ではなく、西村宮内庁長官の発言でありますが、相当に思い切った発言です。天皇自身が『感染拡大に懸念』と直接的に発言をすることは政治的な問題への関与に繋がる可能性もありできないわけですが、オリンピックによって感染拡大に繋がることを天皇が心配しているように見えると、宮内庁長官自身の思いとして発言することはギリギリのラインで許容されるかと考えられます。
 もちろん、こうした発言を宮内庁長官個人だけの意思でできるものでもないかと思います。東京では緊急事態宣言解除後に感染者数がリバウンドしている状況のなかで、天皇自身がそう考え、そうした思いを長官が理解しているからこその発言ではないでしょうか」と解説する(Yahoo!ニュースコメント)。
 秋篠宮さまは近年の誕生日会見などでも、自由に発言される姿勢は変化していないように見えるが、令和の皇室でどのような役割を果たそうとされているのだろうか。眞子さまのご結婚問題で揺れる、秋篠宮家の30年あまりの日々を河西氏が振り返る。
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納采の儀では「3DKに使者を迎え」
 秋篠宮夫妻が結婚31年を迎えた。昭和天皇の喪中でもあった1989年8月、「朝日新聞」が「ご婚約固まる」とスクープ(「朝日新聞」1989年8月26日)し、そこから2人は常に注目を浴びる存在だった。この記事では「礼宮さまが主宰するサークル『自然文化研究会』に所属したことで知り合い、4年間にわたって交際を続けてきた」こと、「皇族としては異例の、自由な交際からの結婚が実現する見通しとなった」ことが記されているが、2人は恋愛結婚であることが大きくクローズアップされた。平成が始まり、「開かれた皇室」への変化が叫ばれるなかで、「若い2人が、平成の時代にふさわしい、新しい皇室像をつくっていく」(「朝日新聞」1989年8月26日夕刊)と見られたのである。
 また、納采の儀の様子を伝える記事では「3DKに使者を迎え」(「朝日新聞」1990年1月12日夕刊)という見出しが付いたように、父親が勤める学習院大学の共同住宅に住んでいることが印象づけられている。この記事では川嶋家を「小さくとも温かな家庭」と表現しており、正田家から嫁いだ美智子皇后以上に、一般的な家庭の女性が皇室へ入ることが強調された。この時期の新聞や雑誌ではこうした言説があふれており、それを私たち自身が受容し、新しい皇室のあり方と見て支持していった。
 そして1990年6月29日、2人は結婚し、秋篠宮家が創設された。当日、紀子妃が秋篠宮の髪を直している写真が撮影され、宮内庁はその配信差し止めを求めたものの、むしろ「ほほえましい」と評価されて多くの紙面に掲載された。これも恋愛結婚の、新しい皇室の象徴と見られたのだろう。「変革を促す『1枚の写真』」と主張する社説まで出たくらいである(「朝日新聞」1990年7月14日)。
 翌年10月23日には長女が誕生。眞子内親王と名付けられた。天皇・皇后にとっては初孫であり、皇室に新しい世代が登場したことで、彼女の成長はその後、メディアで大きく取りあげられることとなる。特に、平成に入って、ワイドショーが皇室ネタを数多く扱うようになっていた。秋篠宮夫妻の結婚、眞子内親王の誕生と成長などはその格好の題材となったのである。1993年1月に皇太子と小和田雅子さんとの婚約が発表され、6月に結婚し、皇室全体がメディアのなかで注目される状況が続いた。1994年12月29日には秋篠宮家に次女の佳子内親王が誕生し、やはり彼女もその成長がその後、メディアで取りあげられていく。
 
紀子さまのご懐妊が発表され、事態は大きく変化
 少し遅れて2001年12月1日に皇太子と皇太子妃に長女の愛子内親王が誕生、結婚から8年ほど経て途中流産を経るなど、皇太子妃にはいわゆる「世継ぎ」のプレッシャーがかかっており、そのなかでの出産であった。眞子内親王、佳子内親王、愛子内親王と女性皇族の誕生が相次いだことから、小泉純一郎内閣は2005年1月より皇室典範に関する有識者会議を開催し、11月には女性・女系天皇を容認すること、皇位継承は男女を問わず第一子優先が適当であること、配偶者の男性も皇族とする女性宮家を設立することなどを求めた報告書が提出され、政府は皇室典範改正案作成に踏み切った。ただしこれには反対論も強かったが、小泉首相は次の世代が女性皇族しかいない状況のなかで、改正するしかないと考えていた。
 ところが翌2006年2月、紀子妃の懐妊が発表され、事態は大きく変化する。与党内で典範改正への慎重論が高まり、9月6日には長男の悠仁親王が誕生、それによって小泉内閣は皇室典範改正案を国会へ提出しない意向を表明した。もしここで改正されていたとすれば、次は皇太子、その次は愛子内親王が天皇になるはずであった。しかしここで改正がなされなかったことで、皇太子の次には秋篠宮家へと皇位が移ることが事実上決まったと言ってもよいだろう。
「人格否定発言」への苦言 あえて“軋轢”を見せられた真意
 これと前後して、2004年5月には皇太子が「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と述べ、いわゆる「人格否定発言」を行って、衝撃を与えた。雅子妃が前年に帯状疱疹を発症して公務を休み療養、いわゆる「世継ぎ」のプレッシャーが与え続けられていたことが大きな問題となった。
 皇太子の「人格否定発言」を受け、秋篠宮は11月の誕生日記者会見で「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております」と苦言を呈し、兄弟の不和が話題となったが、このように公的な場でそうした軋轢を見せることのハレーションを避けるよりも、秋篠宮は自身の思いを自由に発言することを選択したのではないか。
 
眞子さまと佳子さまの意思を尊重した「ICUご入学」
 また、インターネットの発達によって、皇族に対する新しい受容が出てくる。2005年ごろから、中学生・高校生の眞子内親王を模した「萌え系イラスト」がネット上に数多く出てくるようになり、「ひれ伏せ平民どもっ!」とのニコニコ動画もアップロードされるようになる。このように、「眞子様萌え」と呼ばれるような現象が相次いだ。その後、佳子内親王も「麗しの佳子さま」などと呼ばれ、そのビジュアルがネット上で注目を浴びるなど、サブカルチャー的な扱いで秋篠宮家の女性皇族2人の話題が取りあげられることが増えた(茂木謙之介『表象天皇制論講義』白澤社、2019年)。
 これまでの皇族の進学先である学習院ではなく国際基督教大学(ICU)への2人の入学(特に佳子内親王は学習院大学を中退しての再入学)は、国際化社会に対応した、しかも本人たちの意思を尊重した選択として、評価されていた。
 秋篠宮家に対する世間の目はやさしい一方で、宗教学者の山折哲雄が「皇太子殿下、ご退位なさいませ」(「新潮45」2013年3月号)という文章を発表したように、皇太子夫妻に対する世間の眼は厳しかった。記者会見における秋篠宮の自由な発言と皇太子の文章を読み上げる態度も、対比的に捉えられた。
 ところが、2016年の平成の明仁天皇による「おことば」が契機となって、この状況に変化が訪れる。メディアは次第に、次の天皇・皇后になる皇太子と皇太子妃に関する話題を数多く報じるようになる。「代替わり」までにしばらくの時間があったことで、こうした報道が継続し、皇太子の水問題への取り組み、皇太子妃と東日本大震災被災者との交流などのエピソードが繰り返し報じられ、次第に皇太子夫妻の存在が人々に知らしめられ、そのプレゼンスもあがっていく。
 

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